やたろう文商会

山形住みます作家・やたろうの公式(?)ブログです。

春秋の牡丹6

古代中国小説、第6弾です。

 

 六章 新鄭侵攻戦

 

   1

 

 趙氏に張孟談あり、と知らしめた記念すべき宴の夜が明けた。

戦の前の英気を養うべく休暇を与えられた兵や軍属らは、風光明媚な絳の景色を楽しんだ。また、公共施設の許可も下りたので沐浴したり、演劇を鑑賞したりと談笑する声が溢れ返った。

ただ四卿と、その幹部達は大忙しだった。明日に進軍を控えており、鄭側の様子なども熟知しておく必要に駆られていたからだ。

 孟談もまた、軍師の陽虎を始め、戦車隊の指揮官楚隆、医療班の原過、外交担当の延陵生と額を突き合わせていた。

趙氏のために割り振られた会議室の上座には無恤が腰掛け、新稚狗と天狙が両脇を固め、相談役として崇王彦が特別席に座していた。

「皆も知っての通り、鄭は晋と同じ姫姓の指導者・勝(しょう)公殿下が治める名門です。作物の実りも豊かで要衝も多い。そして砦も多いゆえ、攻め難(にく)うござる。如何したものか」

 陽虎が口火を切る。少人数、或いは単独で暴れ回って魯国をかき乱した元悪党も、地図を前に苦り切っている。

いくつも並び立つ砦は堅牢で、確固撃破するのに時間がかかってしまい、攻める側に不利だ。

そんな状況下では、少しでも油断すれば新鄭や同盟国からの援軍に挟み撃ちされる。如何に孟談の宴で士気を上げられた軍団でも、苦戦は必須である。

「陽虎殿、これをご覧下さいませ。」

原過が、木簡と皹(ひび)の入った鹿の骨を差し出した。この簡には、彼が占ったものの内容が書かれていた。

「快晴続きでござるか……じゃが、途中で乱れておると言う事ですな」

「然様でございます。恐らく急変するものと思われますが、旱(ひでり)なのか風雨か、現時点では不明です」

 原過は一瞬、その端正な顔を曇らせた。快晴で見晴らしが良ければ有利には見える。

 

しかし、強固な砦に立て籠もり、晋軍の疲弊を狙う鄭からすれば、晴天で敵の姿が丸見えなので城壁から射撃するだけで優位に立てるのだ。早期決戦をしなければ、他国の増援を招いてしまう。

晴天による奇襲しづらい環境。それこそが原過と陽虎の悩みだった。二人の顔を見た延陵生が心得たとばかり、会議を進めに掛かった。

「それについては、張殿から提案があるそうです。張孟談殿、どうぞ」

 話を振られた孟談が前に進み出た。

「私の考えですが、鄭の天候や地理は、現地の人が知っていると考えます。そこで、天狙さんの特技を生かしたく思うのです」

「おらの特技ねえ……あはは、奇襲なら任せとくれよ!」

 孟談の提案に、天狙はにやりと笑った。

「ほう、夜宴の名将に趙随一のいたずら者か。面白い、やって見せい」

 無恤も会心の笑みを浮かべている。陽虎、原過、延陵生も孟談と天狙の奇襲作戦を支持した。

 一方、新稚狗と楚隆は不平顔である。戦車と騎兵は城門こそ突破すれば大暴れできるが、門を破るまでが問題なのだ。

「楚の旦那。俺らの力なら城門をぶっ壊す事なんざ朝飯前だのに、何だって面倒くせえ方法を取るんだろうね。俺様は分からねえや」

「確かに。だが、兵法を学んで来た私としては自軍の犠牲を極力減らすのが軍人としての義務であり、武人の礼と心得ます。天狙さんと張殿の作戦に協力するのも悪くは無いでしょうね」

 自信に満ちた豪傑と、義務感に燃える智将は苛立ちを抱えつつも、綿密な作戦を選んだ。己の得意分野を活かすためには、敢えて不本意な道をも歩まねばならないのが武人と信じているのだ。

 

それから、一日が過ぎた。

絳を出立した晋軍は新鄭への道を歩んだ。進軍する面々の中では紅一点の女戦士である天狙の耳には、幼い女の子に不釣り合いな、古びた宝珠の耳飾りが光っていた。

それは出陣式の前夜に遡る。天狙は趙鞅の隠居している庵に呼ばれていた。

「大殿様。天狙でごぜえます」

 少し前に生の梨を食べさせて高共に叱られた事があったので、庵の前に立つ天狙は遠慮がちだった。

 しかし、趙鞅は柔和な顔で彼女を招いた。

「おお、天狙か。苦しゅうない、ゆるりと腰掛けい」

 人懐こく笑う老当主は、彼女の首に首飾りを掛けた。それは古い宝玉を連ねた、年季の入った代物だった。

「これは儂が若い頃、西方の者に商いを許した見返りとして献上されたものじゃ。魔除けの力がある石と貴金属で造られておってな」

 

その貴重な首飾りは女ものだった。

趙鞅は亡き妻はじめ、伯魯や無恤が嫁を貰えば彼女らに、代国の趙貴妃には嫁入り道具に添えるなど、多くの女性に首飾りを贈った。

「これは最後のひとつなのだ。お主の前途に天の御加護が在らん事を祈り、これを授ける」

奴隷として異郷に来たにも関わらず、いつも陽気に皆を和ませる天狙を、趙鞅は普段から不憫に思っていた。

女の身でありながら軍属として偵察のために加わるのも致し方ないが、十歳前後で戦に行くなど男の子でも滅多にない事である。

 そんな彼女を死なせたくない。出来れば奴隷の身から解放して娘らしい人生を送らせてやりたいと、趙鞅は胸痛む思いでいたのだった。

かつては曲者として諸国で恐れられた武人も、今や老いた領主だ。華夏人であろうと蛮族であろうと、若者や幼子を気遣う慈悲心が芽生えていた。

 女の子が趙貴妃しかおらず、無恤など息子達の家で産まれた孫娘もまだ赤ん坊である。そうした中で健気で気さくな、この女奴隷を見つめる趙鞅の心境は如何ばかりだったであろうか。

「ありがとうごぜえます。おらはこれを耳飾りにしていきますだ。首飾りだと落とすと良くねえだから!」

 天狙の声でハッと気が付いた趙鞅は、微笑みながら彼女を退出させた。彼の目には、うっすらと涙が滲んでいた。

 

   2

 

天狙はその翌日、拝領した首飾りを解体して耳飾りに作り直した。

それは耳に穴を空ける南蛮の呪具と言える耳飾りで、現代のピアスやイヤリングに似ているものだ。

「大殿様。おらは魔除けの御加護を頂いただもの、何も怖くはねえ。精一杯やってくるだよ!」

宝玉の耳飾りを揺らしながら歩兵と共に進軍する天狙の前方には、黒駒に跨った新稚狗がいた。

彼の隻眼には白い金属と緑色の玉石が埋め込まれた、まるで義眼のような眼帯が装着されていた。

 天狙が趙鞅の庵に呼ばれた日、新稚狗は空氏と趙嘉の屋敷に招待され、晩餐を振る舞われていた。

「奥方様、それに坊ちゃま。俺さ……いえ、おいらをこんな宴席へお招き下さりやして、光栄至極でございやす」

 新稚狗は白い顔を真っ赤にし、酒のせいだけとは思えない風体で二人に挨拶した。無恤の妻子に自分だけが招かれてもてなされるなど、思いもよらぬ事だった。

 大きな身体を揺すって平伏する彼に、趙嘉が漆塗りの盆に載せて差し出したのは、白銀製で楕円形をした物体だ。両脇には鎖が付き、中央部には緑の玉石・翡翠(ひすい)が埋め込まれている。

「坊ちゃま、こいつぁ一体(いってえ)……」

 新稚狗が問うと、空氏が説明した。

「隊長殿、これは私達からの餞別です。いつも息子を鍛えて頂いている事への返礼と、御武運の長久を祈る意味で、この眼帯を差し上げます」

 

 行儀良く座る趙嘉は天狙と歳は同じだが、威厳と気品のある若殿ぶりで、腰には銀製の鍔を付けた剣を佩(は)いていた。

その鍔は、自分が拝領した眼帯とお揃いであった。

「勿体ねえ。おいらみてえなやくざ者の眼帯と、坊ちゃまの剣の鍔が同じ物とは……」

 再び拝礼した新稚狗を、趙嘉が抱き起こした。

「私は、あなたの強さに憧れています。今後とも鍛えて下さい。その為、是非とも勝ち残って欲しいと願い、私の鍔と同じ鋳型で鍛えた眼帯をお贈りしたのです」

 幼い若君と、その生母が自分を良く理解し、そして頼り切っている事を知った新稚狗は感激の余り、面を上げる事が出来なかった。

 自分は北狄の奴隷だったのが脱走して賊徒化し、無恤に諭されて降伏して仕官した。騎兵隊長として重用されて今に至るが、ここまで嬉しかった事は無い。

荒くれ者の悪党として暴れ回る新稚狗は野蛮だ。だが、その野蛮さゆえに心は真っ直ぐで、どこまでも生真面目になれるのだ。軽薄な振る舞いをしたために戦死し、若様を泣かせる事だけはしたくない。

新稚狗は、翡翠の煌めく白銀の眼帯を押し戴いて眼に装着した。その高貴な輝きは、ぎらぎらとした獣性に一片の凛々しさと雄々しさを付加したのだった。

「坊ちゃま、奥方様や趙周様を助けて留守を守っておくんなさい。俺様は“葷(くん)粥(いく)の隻眼(せきがん)狼(ろう)”じゃねえ。趙の銀(ぎん)狼(ろう)として、鄭を討たせて貰いやす」

 葷(くん)粥(いく)とは、モンゴルに住んだ匈奴の前身と言われる北方民族だ。幾度も華夏と争ったため、北狄同様に忌み嫌われる存在であった。

北狄生まれで、隻眼・巨体の異相を持つ新稚狗を恐れ慄いた晋の人々は、そうした経緯から彼を“葷粥の隻眼狼”と蔑称した。新稚狗自身もそれを二つ名にして暴れ歩いた。

だが、趙嘉から賜った眼帯は翡翠が中央に付いていたため、まるで眼球のように見えた。それにより、新稚狗は趙の銀狼と二つ名を改め、気分も一新して戦う事を改めて誓ったのであった。

「おやまあ……原の旦那が占ったように、からっからに晴れてらあ。これで野戦だったら俺様が無敵なんだがな。早くひと暴れしてやりたいぜ」

 北国育ちの新稚狗は暑さに敏感だ。彼が額を拭うと、銀の眼帯がきらりと日光に反射して光った。

 

 戦車や騎馬隊だけでなく、歩兵や輸送隊も多い今回の行軍は、まさしく大所帯だ。

得意の騎兵を活かせる日を楽しみにしながら、新稚狗と彼の配下である元遊牧民

賊兵らは馬の足を進めた。

 同じく天気を気にしていた孟談は、指揮官を乗せるため頑丈に設えられた特別製の戦車に乗っていた。

その戦車を操縦するのは陽虎で、左には指揮官の趙無恤が弓を持ち、そして孟談は戈を手にして右を守った。

「快晴か……原過殿の占いに会ったような乱れが、番狂わせが起きてくれたら良いのだが」

 天狙と組んだ奇襲作戦や工作も、快晴では難しい。強固な砦が並ぶと言う鄭に近づくにつれ、孟談の顔も心なしか険しくなっていった。

 それをちらりと見つつも、左に乗った無恤は落ち着き払っていた。まるで孟談が何か仕出かすのを予測しているかのような目つきだ。

 あと十日か、それとも十五日であろうか。大軍を抱えた晋軍は、新鄭への道を歩むのであった。

 

   3

 

 半月近い行軍が続いた。晋の四卿と崇王家の連合軍は、遂に晋と鄭の国境まで到着した。

「おう、あれは鄭軍の軍旗。城外でお出迎えとは手間が省けたわ」

 智瑶が睨み付ける先には、周の宗族を意味する“姫”と染め抜かれた旗が翩翻と翻っていた。戦車部隊が前面を固め、干・戈など長兵器と盾を手にした歩兵が従い、後方には援護射撃の弓兵と、定石通りの布陣だ。

「むう、ちと早いが義兄と新稚狗の騎兵で掻き乱してやりましょうか。ここまで数が多いと、少々厄介だ」

 趙無恤が呻く。孟談に奇策があるとは言え、前面の戦いを突破しない限り、砦を落とす事は不可能だ。

 しかし、

「ここで貴公の騎兵隊を用いては勿体無い。魏卿も観戦して頂き、韓卿のみの援護を頂戴したい」

 何と、智瑶は韓虎の部隊のみを援軍とし、智氏で鄭の先鋒隊に挑むと言うのだった。

「わしの部隊と言えば、あれでござるな。任せられよ!」

 大笑した韓虎は手を叩いた。すると、戦車が列を成して牽かれてきた。

 その戦車の形は他の三卿と大差ないが、左右の席には弩が取り付けられている。また、歩兵も弩を手にした兵士が大半であった。

「我が韓氏が開発した弩兵戦術じゃ。戦車と歩兵の歩調を乱してくれようわい」

 今度は智瑶の番だ。彼の合図と共に出てきたのは、小ぶりではあるが丈夫そうな盾を装備した歩兵である。

ただ、異様に長い武器が目を引いた。それは、一丈三尺(約三メートル)もの長柄の先端に斬る為の刃が付いた鈹(ひ)と、刺すのに適した鋭い穂先を付けた矛(ぼう)の二種類であった。

「智卿、戦車隊や弓兵隊は無しで大丈夫か。戦は歩兵のみに非ず……前衛と後方支援は必要ですぞ!」

 心配そうに見つめる無恤に、智瑤は微笑みかけた。

「これは我が智氏自慢の甲人(こうじん)隊です。鄭の弱卒めらに何が出来ましょうや。趙魏の方々、ご覧あれ」

 智瑶と韓虎が配下の兵士を紹介していると、罵声と砂煙が起こった。

 

「主らが来ぬならばこちらから行くぞ。神聖な鄭を狙う汚らわしい侵略者共、覚悟

せい!」

「同族の国に迷惑をかけ散らし、天子様を蔑ろにする晋を許しておけるか。戦車隊、

突っ込め!」

 動き出さない晋軍に焦れったくなった鄭軍が、攻撃を開始したのだ。

「ふん、儀式もせずに攻撃とはな。貴様達も宗室の御膝元に不相応な輩よ……お前達、あの方達と遊んで来なさい!」

 智瑶の号令と共に、盾と鈹・矛を手にした歩兵数百名が前進した。

「太陽は相変わらず照っているな。天、晋軍に味方せり……今こそ智氏の威光を示

せ、光(こう)!」

 

 主君の声を聞いた兵士は、敵の戦車に向けて小盾を突き出した。すると、盾が光を放ったではないか。

「何だ、この眩しさは!」

「駄目です。馬の目が眩んで動けません!」

 光で敵の先鋒が混乱しかけたのを智瑶は逃がさなかった。

「他愛もない奴らだな。歩兵隊、林(りん)!」

 混乱した戦車が突っ込んで来た所に、歩兵が身長の倍はある長兵器、鈹と矛を繰り出した。

目潰しを喰らわされ、馬の操縦もままならない敵兵はそれに突き刺され、或いは自軍の戦車によって、次々と轢き殺されていった。

「あとは儂の番でござるか。弩兵、撃てい!」

智瑶に目配せされた韓虎は、合図用に用いる旗を振り、野太い声を張り上げた。

戦車に取り付けられた弩は大ぶりなもので、馬や重装備の歩兵を射倒す威力があ

った。これには、怖いもの知らずの新稚狗も驚いた。

「すげえな。これじゃあ、俺達遊牧民もお手上げだぜ!」

新稚狗のみならず、趙や魏も韓氏が弩兵戦法に秀でているのには驚嘆を禁じえな

かった。

主力である戦車と重歩兵が倒れ、傷付いた後の勝負は呆気ないものであった。

敵を囲むように展開した韓軍が援護射撃を始めた所、旗色悪しと見た鄭軍はそれ

ぞれの所属する要塞へと撤退していったのだ。

智氏と韓氏の圧勝であったとは言え、味方にも死傷者はいた。だが、ほんの十数

名であり、敵兵は智瑤による歩兵戦術で五百人近い戦死者を出していた。

また、韓の弩兵隊に射られた鄭軍の負傷者は更に多く、退却した者と人質・身代

金との交換用に捕縛された捕虜を合わせれば、傷病兵は千人以上であろうか。

戦利品の車馬や武具、兵糧も結構なものだった。要衝地だけあって良品揃いで、分け前に与れると兵士たちは大喜びであった。

 

智瑶は趙と魏の軍人達に後片付けを頼むと、韓虎・魏駒・趙無恤と崇王彦を交えて作戦会議を開いた。

「智卿、お見事でありましたな。時にあの甲人隊とは、如何な戦法か?ご説明頂けますかな」

 趙無恤の質問に、智瑶は嬉しそうに返答した。

「あれは、大きく薄い皮革を何層にも重ねて油や膠で塗り固めた盾と鎧兜であります。動きにくく、錆び易い銅製の物よりも使い勝手が良いのです」

 更に、あの光や長兵器を用いた戦術にも説明があった。

盾に埋め込まれた金属片を光らせて敵の目を眩ませ、続いて鈹や矛で中距離から攻撃をするとの事だった。

光は太陽光を活かした撹乱、林は林の如く並び立つ長兵器で突き刺す事を意味する符丁(ふちょう)である。

流石に盾と長兵器の製法は秘密であったが、統率に優れた智瑶ならではの名戦術であり、一部とは言え手の内を明かしても余裕を持っていられるのは自信の表れと言えた。

 

   4

 

智氏と韓氏によって鹵獲(ろかく)された物資は、奪取したばかりの鄭国境に作られた本陣の倉庫にしまわれた。

続いては捕虜の処分である。それについて、晋軍で激論が交わされた。

「あの中に人材がおれば登用すべきです。鄭は豊かで文化的な都市ゆえ、きっと良き人がおりましょう」

 早速、口火を切ったのは趙無恤だ。無恤は趙鞅や高共の影響で、多くの人を見ると人材探しをしたがる癖がある。

 そんな彼に、代の崇王彦が口を挟んだ。

「賢弟はお嫌かも知れぬが、見所がありそうなのを私にもお裾分けして頂きたい。農地を良く知る者は、我が国にとって貴重な存在ですゆえ……お頼み申す」

 崇王彦が無恤に分けて欲しいとねだっている対象は、鄭軍捕虜の身柄である。北狄の新稚狗が趙で貴重な羊や馬の世話係とすべく連行されたのと逆に、牧畜国家の代では農耕をする奴隷階級が貴重であった。

特に華夏人の穀倉地帯で得た奴隷は、経験も能力も素晴らしかったため、崇王彦はそれを期待する意味でも義弟の挙兵に加わったのだ。

 

現代では廃止されているが、古代は奴隷階級が不可欠であった。

中国の宦官は、女性だけの後宮貞潔を守らせるために設けられた去勢された男子による奴隷が始まりだった。

代国と同様に戦士や牧畜する人々が支配階級であった古代ギリシャが、農業用の労働力を手に入れるために戦争し、異民族を奴隷化したのは有名だ。その後を襲う形で欧州の覇者となったローマ帝国ゲルマン民族も同じであった。

インドでは反対に、西国から攻め込んで来たアーリア人によって征服された先住民が、牧畜をする奴隷カーストになったと言う。いずれにしても、単なる支配欲や労働力欲しさではなく、自分達が不得手・不浄としている職務に当たらせるための人材確保としての側面があった。

 すなわち、人力か家畜しか労働力が存在しなかった古代の戦争とは、領土や資源だけではなく、生産者を得るための争奪戦でもあるのだ。

 

 農耕用奴隷を欲しがる義兄の顔を見ていた無恤は、一息置いて返答した。

「出来る限り、ご要望にはお応えしましょう。ですが、相手は同民族。我が軍の捕虜や身代金と交換しようと敵が言えば返すのが礼儀……そればかりは御容赦下され」

 如何な荒くれ者でも、同じ華夏人を奴隷にするのは気が引ける。魏駒も韓虎も頷いた。

「分かり申した。それでは、またの機会に致しましょう」

 大柄な体を揺すりながら、崇王彦は席に戻った。その目は欲望と言うよりは代国を開拓し、豊かにしていきたいと言う思いに輝いていた。

彼も、北狄の新稚狗が大事にされている事や、自分の愛妻が晋の趙貴妃である事からして、華夏人奴隷を粗末に扱う気は無かったので、お裾分けを頼んだのだ。

代国内にある農地に彼らを住まわせて生産させ、賢い者は趙貴妃の側仕えに取り立てるなどして、中原の文化を北にも広める計画を胸に抱いていたのである。

周の国にも負けない王国……かつての商のように素晴らしい国を開発したかったのだ。それこそが、崇侯虎の子孫である自分が果たすべき義務であると信じていたからである。

 

「代国暮し、人材として登用、いずれも情け深いですな。戦う前に降伏すれば良いものを、勝てぬことを知って生き残ろうとは情けない。斬首して見せしめにすべきです!」

 突然、智瑤が一喝した。義兄の話を聞いていた無恤だけでなく、韓虎と魏駒も怪訝そうに顔を見合わせた。

だが、智瑤にとっては大問題である。商王朝の末裔と言う誇りを胸に晋を支える彼にして見れば、晋公家の威信を知らしめねばならない。

その智氏の軍を前にして歯向かった無礼者は許しを請うなど許されず、死あるのみなのだ。

「おお、失敬。つい、気が昂りましてな……鄭軍は砦へと逃げて行きましたが、如何致しましょう。我らの威勢に怯えている奴らは、援軍を待って籠城するでしょうな」

 趙氏の悩みもそれだった。特に趙鞅に負けた反逆者・中行寅と范吉射はこれを聞き、亡命先の斉軍を率いて攻めてくるだろう。

 衛や楚も晋が増長するのを快く思わず、鄭に加勢する可能性は大きい。敵軍の士気を挫いて有利な和平をするか、早期決戦で大打撃を叩き込むしかない。

 思い悩む無恤が他の四卿や義兄と同様に黙り込んでいると、表から大きな声がした。

 

「すげえ風だなあ。黄色くなってらあ」

 天狙が騒いでいた。

「俺様がいた所にもこんな風は吹いたぜ。歯が黄色い奴は、こんな風が多い所の生まれと言われてるらしいな」

 驚く相棒をなだめつつ、新稚狗が思い出を語るこの風は、他でもない黄砂である。

黄河流域・黄土高原の乾燥地帯に多いこの現象は、人口増加による開拓で露出した黄砂が巻き上げられて起こる事は、当時も記録されている。

「これでは前も見えないでしょう。私の占いにあった乱れとは、大風のようですね」

 原過は、呟きつつも何かを思いついたらしく、自軍の天幕へ駆けて行った。天幕の中では、孟談が楚隆や陽虎らと趙軍内部での作戦会議中だった。

「お聞きなされ。我らが苦しき時は敵も同じでござる。各々の御尊顔を拝見するからに、何か思いついたと見た。これにお書きなされ……」

 陽虎が差し出したのは木簡だった。楚隆も頷きつつ、原過や延陵生にも木簡と筆を渡した。孟談も、筆を執って何かを書き込んだ。

「皆様の御答えを拝借仕る。表を出しなされ!」

 陽虎の声と共に一同が差し出した木簡に書かれた答え、それは“嵐計(らんけい)”であった。

 

   5

 

 陽虎のもとで張・原・楚の三人が嵐計を提案していた頃。会議室の外が騒がしいのに気が付いた趙無恤は、その元凶が随行させた蛮族部隊だと知り、表に駆け出した。

「これッ! 新稚狗に天狙、何を騒いでおる。主らはこの場を何と心得るのか!」

 二人を叱り飛ばそうとした無恤だったが、外の様子を見て得心した。

「黄砂か。確かに、敵もこれでは戦えまい。だが、これも機会と言えば機会か……」

 無恤が呟いていると、後ろから声が掛かった。

「流石は趙御曹司です。この状況を利用しようとは、妙計と申せましょう」

 声の主は智瑶だった。彼は扇で口元を隠し、砂が入らないようにしながら外を眺めていた。

「そろそろ、会議もお開きとしましょう。趙氏の天幕では、きっと良き案が立てられているはずです。宰の器がある御仁がおいでなのですから……」

 智瑶は、相も変わらず孟談に御執心と言った態であったが、今回の作戦では趙氏に期待しているようだった。無恤も頷き、連れ立って会議場へ戻った。

 この密談の直後、黄砂が止むまでしばし休息と言う事で智瑶と無恤が会議を終了させた。捕虜達は収容施設に抑留され、処分は保留と相成った。

 

「陽虎将軍、御苦労でした。お前達も、何ぞ名案は浮かんだかね?」

 趙氏の天幕に入って来た主君の前に臣下一同が続いて礼をした。陽虎は続けて、

「我が趙氏の将は心を一つにしております。原・楚・張・延の四名とわしの意見は、嵐計で合致し申した」

「らん……嵐計とな。実はのう、智瑤殿も同じような事をお考えなのだよ。詳しく話して見よ」

 無恤が膝を乗り出すと、陽虎は皆の意見をまとめた書類を提出した。

目前にある砦の兵士らは、一帯を覆う砂嵐で集中力が乱れるだろう。そこで誰か間諜を忍びこませ、内側から混乱させて門を開けてしまえば突撃可能になる……陽虎がまとめた計略がそれであった。

 無恤は愁眉を開き、微笑んだ。

「うむ。では、突撃は楚隆に戦車を、新稚狗に騎兵で突撃を頼もうぞ。忍びこめるのは主だけ……陽将軍と孟談の指示を良く聞くのだぞ」

 無恤の視線が向けられていたのは天狙だった。彼女も目を輝かせて満面の笑みを浮かべ、

「承知しましただ。おらは森の中でも夜目が利くだから、任せて下せえまし!」

 趙氏の面々が気炎を吐いている時、智氏の陣営では智過ら臣下を相手に軍議をしている智瑤の姿があった。

「ふうむ……今宵、鄭城は朱に染まらん。宵の口に産まれし者の刃に掛かりて。見ものだな」

 智瑤は、詩歌の響きを真似た口調で呟いた。彼は教養も豊かで多趣味であり、戦場でも智の名に恥じぬ心意気を忘れぬ、当代きっての粋人であった。智瑤の織りなす調べが、夕暮れの新鄭に響き渡ったのであった。

 

 その日の黄昏時である。砂嵐はますますひどくなり、兵士達は暴風設備の支度など、市内での勤務に回されていた。敵が攻めてくる可能性は少ないので、最低限の門衛しかいなかった。

そんな中、襤褸切れにしては不自然に大きすぎる物体が、裏手門の方へ転がって行った。だが、黄砂に忙殺される兵達の視線に、その塊は映らなかったのだった。

 辺りが暗くなりかけたのを見計らうと、その塊から縄の先に青銅製の鉤爪を付けた物が伸びて壁に引っ掛かり、そのまま城壁へと登って行った。

「よっこらせと。ようやく入れただ。お仕事、お仕事っと」

 独り言を言う襤褸の塊は城壁の上に辿り着くと、人の姿になった。鉤縄を手にし、短刀と鏨(たがね)を腰に差したそれは、他でもない天狙であった。

 天狙は大門の方へ歩いて行った。襤褸を身体に掛けているため、物乞いの子供にしか見えないらしく、時々出会う兵達も気に留めなかった。

「あれだな。さっさとぶち折って、新稚狗や楚隆どんを入れてやっか」

 鏨を手にし、天狙が向かったのは晋軍陣営と対峙している砦の正門だった。鏨を持っているのは、閂(かんぬき)を破壊するためであった。コツコツと音をさせて削るのだが、樫木で造られているせいか、なかなか折り取れない。

 

そこに、声がした。音を聞きつけた兵士が気付いたのだ。

「曲者だ!」

 流石に天狙は危険を察知してその場から退散したが、敵兵の守りは益々厳しくなりそうである。すると、彼女は懐から白い塊を出した。

この包みは、南蛮部族が狩りに使う眠り薬である。天狙がそれを投げつけようとした瞬間、後ろから手が伸びて来て彼女を抑えつけた。

「お、おめえは誰だ?」

 天狙を押さえつけているのは大柄な男性であり、屈強と呼ぶに相応しい体躯の持ち主であるが、温厚な雰囲気を目元に湛えている。

「私は智(ち)宵(しょう)……貴女の味方です。ここでは話がしづらい。まずはこちらにおいでなさい」

 高共を苦しめてばかりいる、憎い智瑤と同じ姓の大男に声をかけられて、天狙も一瞬だったが不快を感じた。だが、勝敗がかかっているこの戦、贅沢など言っていられない。

「分かっただ。案内してくれろ」

 彼女の呟きを聞くと、智宵は天狙を路地裏へと誘った。砦内に、兵が掲げる松明が明々と灯っていた。

 

   6

 

 智宵に導かれて路地裏に逃げ込んだ天狙が案内されたのは、崩れかけた掘立小屋だった。貧しい者達が住む居住区のようである。

「お嬢さん、お入りなさい。窮屈でしょうが、少し我慢して頂きたい……」

 天狙は智宵に言われるがままに小屋の奥に身を潜め、夜具をかぶった。それから間もなく、

「遊侠(ゆうきょう)あんちゃん、いるんだろ。開けておくれ!」

 手に戈を手にした衛兵達が家の前で怒鳴った。遊侠と言えば現代ではならず者を指すが、本来は法の外に生きながらも命がけで義理を果たした者達を指す。

 この智宵もそうした人物として、この場末に住まう身なので兵士から“遊侠あんちゃん”の綽名を頂戴していたのだ。兵士らに呼ばれた智宵はどきりとした表情であったが、落ち着き払って戸を開けた。

「おう、いるぜ。兵隊さんらぁ、何か用かえ?」

 天狙は、先程とは打って変わって不良じみた智宵の態度を見て驚き、かつ恐れながら様子を見ていた。

「敵の間諜が閂を壊そうとしていたんだ。見た所、南蛮人のような奴でな、この辺に逃げたはずだが……」

 衛兵の長と思しき中年男性は見渡しながら、

「奥に誰かいるようだが、誰だね?」

 夜具をかぶって狸寝入りを決め込んでいた天狙は、恐怖の余りに全身を悪寒に襲われた。

 

だが、

「済まんが、見なかったぜ。これはわしの妹分で、一緒に歌で稼いでいる。ほら、兵隊さんにご挨拶しな」

 智宵に夜具を剥がされ、天狙も腹を括った。

「うんだ、うんだ。おらは呉の産で、兄貴の子分をしとりますだ。兵隊さん、よろしゅう」

 眠たくて目をこする真似をした。そして、得意な呉の民謡を歌ったので兵士長も衛兵らも、疑いを解き始めた。

「おう、寝てたのを起こしてごめんよ。あんちゃん、邪魔して悪かったのう」

 衛兵達は苦笑いし、巡回を続けるために去って行った。

「ふう、ようやく撒いたか。さあ、寛いで下さい」

 穏やかな口調に戻った智宵は、天狙に茣蓙を与えた。

「なあ、智宵さんよう。あんたは何者だい。どうしておらを助けただか?」

 訝しがる彼女を尻目に、智宵は笑いながら小さな竈から二つの土鍋を運び、食卓に置いた。

「天狙さん、貴女の事は存じ上げているのでね……後ろの戸棚からお皿を取って貰えませんか? 食事でもしながら話しましょう」

 天狙が戸棚を開けると、焼いた肉や野菜の酢漬け、そして乾燥させた果実が入った皿があった。それを卓に並べると智宵は愛想良く笑い、鍋から汁と粥を取り分け始めた。

「この粥、うめえな。米だべか?」

 育ち盛りで、昼から何も食べずに作戦行動中だった天狙は貪るように粥を啜った。だが、

「越の天狙……こうしている姿を見る分には何とも可愛らしいのに、趙氏は幼い女の子に火付けのような事までさせているのですね」

 

 酒杯を手にした智宵が呟いた言葉で、彼女は憤慨した。奴隷の自分に仕事まで任せてくれた主君父子、特に趙鞅を侮辱された気がしたのだ。

「何が悪い! 若さんはおらを見込んで大役を任せて下すっただ。智宵さんに何が分かるだか!」

 智宵は、憤る天狙の顔を可憐なものでも見るかのように見つめていた。そんな彼に、天狙の罵声は容赦なく浴びせかけられた。

「あんたと同じ姓の奴に、面を思い出すだけで飯が不味くなる、智瑤ってえ厭味な野郎がいるだ。あんたはそれと同類だべさ!」

 この小さな客人を怒らせてしまった智宵は、寂しそうに一人ごちた。

「ふうむ。大分嫌われているようですね……」

「えっ?」

 天狙の怪訝そうな顔を見た智宵は、場を取り繕うように笑った。

「いえ、何でもありません。ただ、十歳そこそこの娘さんに殺しの味を覚えさせていると言う噂を聞いてしまっただけです。だが、それは都合が良いことです」

 

 彼の目がぎらりと光ったのを天狙は見逃さなかった。

「あんた、何を考えているだ?」

「貴女と同じ事です。天狙さんは、あの門を破りたいとお考えなのでしょう?」

 思わず頷く天狙に、智宵は明るく笑いかけ、毛むくじゃらのごつごつした手を差し伸べた。

「手を組みましょう。さっき言ったはずですよ……私は貴女の味方だとね」

 熊を思わせる巨体と容貌でありながら心優しく、それなりの聡明さも兼ねたこの大男に天狙は頼もしさと同時に、底知れない恐ろしさを感じた。

 しかし、城門を破ると言う任務を果たすためにはこの巨漢を利用せねばなるまい。恩義ある趙親子や高共に勝利を持ち帰るにはそれしかないのだ。

「分かっただ。おらこそ宜しくな」

 色黒で小さな手が、自分の手を握り返したのを見た智宵は得たりと微笑んだ。

「それでは、作戦会議と行きましょう。この巻物を御覧になれば、貴女の作戦もうまくいくはずです」

 智宵が差し出した巻物、それはこの砦だけでなく、新鄭など鄭各地の要塞の構造が記された見取り図であった。