やたろう文商会

山形住みます作家・やたろうの公式(?)ブログです。

春秋の牡丹5

古代中国小説、第5章です。

五章 夜宴名将

   1

 

 十日後。絳の街がまたしても慌ただしくなった。韓・魏の後続部隊と、崇王彦の代軍が到着したのだ。韓魏両氏は普通に歩兵と戦車からなる、華夏の軍隊であった。

 だが、代軍は殆どが騎乗した遊牧民からなる騎兵隊であった。武具だけでなく、軍装も旗も異形の軍隊に絳の市民は眼を丸くしていた。

 その日の夕方、韓虎と魏駒、崇王彦が智瑤に導かれて姫午・姫鑿に拝謁した。

その謁見式が終わると、智瑤を従えた晋公父子の後ろに付き従い、宴会場に一同は向かった。

「賢弟、いや御曹司。御息災であられたか!」

 無恤が振り向くと、そこにいたのは剛毛の如く強靭な黒い鬚を蓄えた筋骨隆々の巨漢だ。この巨漢こそが、姉婿の代国王・崇王彦である。

「これは義兄上。此度は援軍をお出し頂き、愚弟無恤は光栄至極に存じまする」

 拝礼する義弟に、崇王彦は嬉しげに頷いた。

「いや、私のような愚兄が役立てるなど戦の時ぐらい。良くぞ声をお掛け下さいました。この崇彦がおる限り、鄭など一捻りですぞ」

 崇王彦は無恤の姉を妻とし、趙(ちょう)貴(き)妃(ひ)と言う名まで与えて破格の扱いで寵愛する良き夫でもある。そんな代国の王は、誇らしげに庭先の騎馬隊を披露した。

文武両道の国王ではあったが、かの崇侯虎の子孫を名乗るにふさわしい怜悧さと、遊牧民の苛烈なる破壊性を兼ねた猛者であった。

 

 その隣では、肥えてごつごつした体格をした長髯の中年男が、のんびりとした口調で相方と談笑していた。彼こそが、韓氏の指導者として長年の実績を築いた韓虎である。

「今日、会盟と出陣の酒盛りを兼ねた饗宴が開かれるが、主催は趙氏じゃそうな。のう、魏(ぎ)卿(けい)」

 卿とは、六卿の当主にのみ付けられる称号である。韓虎は隣にいる魏氏の当主に敬意を表して呼んだのだ。

「韓(かん)卿(けい)。自分は若輩者ゆえ、宜しく御指導願います。趙氏の御曹司が宴の御膳立てとは……晋公殿下と智瑤殿も何をお考えなのか、理解に苦しみますね」

 対する相手はまだ若く、顎鬚が少し生えた白い顔で痩せた小柄な青年だ。彼の名は魏駒と言い、こちらは魏氏の後釜を継いだばかりなので、ぎこちない口調であった。

 

 親と子ほどに歳が離れ、性格も容姿も正反対の二人が本当の父子さながらに仲良く話す背景には、趙氏と智氏の存在があった。

 智氏は絳を拠点に姫午・姫鑿父子を傀儡(かいらい)にして牛耳り、最も支配領域が多い。趙も高共や陽虎などの人材を育てて中行寅・范吉射を撃退しただけでなく、呉王夫差や代国の崇王彦と同盟し、人的に恵まれた勢力である。

 そんな二大強者に引き換え、韓と魏は土地も無ければ人材も少ないため、協力し合うしか生き残る道は無い。

必要性に駆られての仲であったが、韓虎は魏駒の若い突破力を頼り、魏駒もまた韓虎の熟練した智勇を信頼していたため、親密な間柄になったのだった。

 

 さて、韓虎と魏駒は晋公父子と智瑤、無恤と崇王彦の後ろについて会場に入った。そして、主賓たる七人は磨き抜かれた階段を上り、壮麗な高台に設えられた席に着いた。

この会場は、絳の宮殿内にある藍(らん)台(だい)と言う高台を備えた広場だ。晋の首府だけあって数万人の兵士を収容できる広さであり、当時最新鋭の設備であった。会場内では趙氏と智氏の軍人達が、各勢力の兵士を宴席まで誘導していた。

 

 智瑤の隣から離れ、兵を誘導している年かさの男性が、智瑤と後継の座を巡った因縁がある智過だ。

この智過は、弟分の智瑤に跡目争いで負けた惨めさを噛み締めた経験からか、兵士や農民など弱者に優しいため配下に人気があった。そのため、彼の誘導を受けている兵士らは皆にこやかな表情で礼儀も正しい。

 他にも同族の相談役として智(ち)伯(はく)国(こく)がおり、文官に士茁(しさつ)、武官に郄(げき)疵(し)と言った名臣を多く揃えている智氏は趙氏に優るとも劣らない。

「流石は智卿。若くして智氏の勢力を晋随一にしただけはありますね。我が魏も人材を探さねば……」

 魏駒が漏らすと韓虎も頷いた。

「全くじゃ。趙氏も逸材揃いでござるゆえ、見ておくのも悪くはなかろう。しかし、随分騒がしゅうなっているのう」

 韓虎と魏駒が耳を傾けると、雷か嵐のような罵声が聞こえて来たのだった。

 

   2

 

「こらッ! てめえら、ちゃんと並べ。並びやがらん奴は、ぶった切るからな!」

 趙氏の担当する場所から聞こえて来た、雷鳴のような荒々しい声の主は新稚狗だった。

彼が剣を手にして兵士や軍属を導くのだが、巨体だけでなく、白い顔に黒い髪と鬚、ぎょろりとした目玉を見た韓虎は胆を潰した。

「恐ろしやのう。あの無頼漢は何と言う奴だ。袴を覆う事もせず、衣の裾も絡げて見っとも無い事よ」

 それには、各地に遊学した経験のある魏駒が答えた。

「あれは新稚狗と言い、元は北狄の奴隷ですが、趙氏の部下になった男です。凄まじく腕が立つので、趙軍に一騎討ちを挑む相手はいないと聞きます」

 更に魏駒は続けた。

「韓老師、俺はあの天狙と言う女が見苦しく見えます。器量も良いのに、気性は荒くれ男も真っ青。しかも、短い衣一枚だから、ことごとく台無しですよ」

 親しい韓虎の前だからこそ彼を老師と呼び、一人称を俺と言う気さくさを持つ魏駒は、今日に限って不機嫌である。その不快な視線は天狙に向けられていた。

貫頭衣は袖が無いため、風でも吹けばすぐさま肌が露出してしまう。増してや天狙はいたずら者。彼女はいつも飛び回っているため、彼らは目に毒とばかり顔を背けた。

 二人が新稚狗や天狙を非難するのは、立ち居振る舞いだけでなく、装いの事であった。当時の中原では上着としてゆったりした長衣を纏うのが礼儀だ。袴を穿くのは元来の風習ではない。

 だが、遊牧民北狄は防寒着と乗馬服を兼ねた、股割れした袴を穿いていた。南蛮部族も短い衣服で手足を露出させていたため、肌の露出と密着した服を嫌う華夏の民は彼らを野蛮と蔑んだ。

 

 このような蛮人を臣下にしている趙氏のもてなしとは如何なものかと韓・魏二卿が藍台の下に広がる会場を見ていると、銅製の鼎(かなえ)がいくつも設えられており、何かが煮えているようであった。漂って来る匂いを嗅ぐと、どうやら牛のようだ。

「牛肉の羹でござるか。しかし、何故に我らの前に並べようとせず、今になって煮ておるのじゃろうな」

 長年、宴会を見続けて来た韓虎は訝しげな顔をした。晋公父子の“おことば”が全兵員にかけられている内は、まだ料理を揃えないのだろうと思っていた。

 だが、

「諸君、よく集まってくれた。今宵は我が趙氏が宴を主宰させて頂き申した。粗酒粗肴であるが、心行くまで楽しんでくれ給え!」

 趙無恤が食前酒の入った椀を手に、宴会の始まりを宣言したのだ。韓虎も魏駒も、呆れてものが言えなかった。

 当時、貴族の食事や宴では日本の本膳料理のような膳が各自に宛がわれ、酒肴を配膳しなくてはならなかった。

だが、まだ料理は揃わない上に羹を煮ている。兵や軍属はまだしも、晋公家や六卿、代国王と言った貴人をもてなすには非常識過ぎる行為だった。

仕方なく韓虎と魏駒が杯を交わし、食事を進めていると会場の真ん中に設営された舞台が慌ただしくなった。何かの催し物が始まるようだ。

「今宵の出し物は“絶纓(ぜつえい)の会”じゃ。さあ、とくと御覧下されよ!」

 無恤の声とともに始まった演劇は、楚国の支配者荘王の故事である。

 

それは荘王が臣下を招き、愛妾を侍らせて夜宴を開いた時の事だった。

酔った家臣の一人が、明かりの消えた隙に彼女の着物に触れ、戯れた。怒った愛妾は犯人の纓、つまり冠の紐をちぎると王に訴えたのだ。

 だが荘王は笑って宥め、臣下一同の冠の紐を切らせる事で宴席の楽しみを保ち、家臣を辱めなかった。それからしばらくして、楚が秦と戦って荘王も絶体絶命の危機になった。

その時、蒋(しょう)雄(ゆう)と言う壮士が現れて王を助けた。

「そなたは、何故私を救うのか?」

 王の問いに、

「自分は以前、陛下の愛妾に無礼を働いた折、御慈悲で救われた者です。せめてもの御恩返しにと馳せ参じました」

 蒋雄はそう言って、かつての温情に報いたと言う。まさに君臣一体の精神を体現する故事であった。

 その故事を題にした演劇は、剣舞をも兼ねた勇壮な舞であった。夜宴が始まる前も美女が剣を手に舞い、蒋雄が荘王を助ける場面でも干戈を激しくぶつかり合わせ、実戦さながらの苛烈さを呈し、来客を酔わせたのだ。

「ほお、悪くはありませんね。俺としては及第点ですが、老師は如何です?」

 魏駒が肴を口に運びながら呟いた。まだ若い彼は、血沸き肉躍る戦いの絵巻に興奮冷めやらぬようで、額に汗が光っていた。

「貴殿が仰せの通りでしょう。道楽息子にしては上出来じゃろうが……ちと寒いですな」

 韓虎が身震いした。春とはいえ北方の初春、肌寒さの残る中での宴会は中年の彼には堪えたのだ。

 

   3

 

 韓虎が巨体を震わせ、魏駒が汗を拭うのを見て涼しげな視線を投げかける者がいた。それは主賓席で晋公父子の脇に座していた智瑤だった。

「趙氏……喰えぬ御仁よな。我が戦に参戦を申し出て来ただけでなく、宴会の主催まで買って出る上に奇抜な宴で一同の歓心を掻っ攫いおった。侮れんな」

 すると、鼎の置かれた炉の前に給仕係の官吏達が整然と並び、牛肉の羹を温まった酒と共に藍台に運んで来た。

古代中国では食後に酒を飲むのが主流であった。そのため、燗がされた正式な酒が運ばれたのだ。

同じ鼎で煮られた羹と燗のされた酒は、兵や軍属の席にも配られて行った。

「さあ、羹をお召し上がりなされ。この肉は謁見式の時に捧げた生け贄の牛。その羹を皆で食し、志を一(いつ)にせん!」

 主催者の無恤が宣言すると一同は満面に笑みを浮かべ、深々と頭を下げて拱手し、食卓に供された羹と燗酒に飛びついた。

彼らが喜んだのは、美酒佳肴にあり付けるのもあったが、高貴な主賓達と同じ鼎から取り分けられた料理を食べても良いと言う事に嬉しさがあったのだ。

「趙様を始め、晋公様や偉い方達は我々に同じ酒肴を振る舞って下さった。畏れ多い事です」

 老兵が涙すると、若い兵士も意気込んだ。

「おうよ。俺達を御身内同然に扱って下さる、お殿様達の優しき御心に応えねばならねえ!」

 そんな彼らの希望と感謝に輝いた目を見た無恤は、満足そうに酒が盛られた爵(しゃく)、すなわち三本脚を持つ青銅製の酒器を口に運ぶのであった。

喜色満面の無恤を見ながら、智瑤はある事を思い出していた。

「趙め、鄭攻めで己らが“牛耳を執る”つもりでおるか。しかも、荘王の演劇の後で、兵共にも同じ料理を食させる事で団結心を固めるとは見事よ」

 智瑤が言う牛耳とは、当時の風習であった生け贄として捧げられた牛に起因する。今日の羹に使われた牛は、殺した直後に七人の主賓が耳の血を啜って誓いを奉ったものだった。

その儀式の際、最初に牛の耳を裂いた者が盟主となった事が転じて、組織を思い通りに操る事が牛耳ると言う言葉が生まれた。

 まさに晋を牛耳っている智瑤は苦笑を口元に浮かべ、粋な趣向が凝らされた宴の主菜である牛の羹を味わった。

 

 一方、韓・魏両氏の席でも驚愕の声が上がっていた。

「趙殿は、酒は食後で出すと言う最低限の礼儀は守っているようですね。おや、韓老師。震えが止まっていますよ」

 魏駒が隣を見ると韓虎の顔には血色が戻り、気分良く笑っていた。

「そう言う貴殿も、出し物に興じてかいた汗で寒そうな顔色だったが、いつの間にか治っておる」

 韓虎は歳のせいで肌寒さを感じ、魏駒は出し物の勇壮さに興奮し、汗をかいていたため彼も寒さを感じていたのが、羹と燗酒を口にしてから感じなくなったのだ。

「談笑する時、簡単な肴と酒で話を盛り立てたのは魯国の礼。次は歌舞で盛り上げたのは、南蛮の文化であろう」

 韓虎も年の功で魯や南方の知識はあり、宴も酣となって寛いだ時、ふと思い出したようにつぶやいた。

「そして、最後は疲れた体を温かな料理で癒すのは北狄流の宴……あの無骨な趙氏とは思えない巧妙さです。一体誰が今日の計画を練ったのでしょう?」

 魏駒もまた、心身を包む程好い快感に身を任せつつ、相槌を打つのだった。

 同じ興奮を覚えたのは姫午・姫鑿の晋公父子も同じであった。

「ううむ。ここまで客の心を奮わせ、体を気遣う宴は初めてじゃ。倅よ、主は知っておるかね?」

 老体である姫午が弱った身体を小刻みに動かすと、姫鑿も頷いた。

「父上、私も存じませぬ。仰る通り、前代未聞であります。どの教典にも記載されていない、斬新な方式ですね」

 暗愚と言われ、後に出(しゅっ)公(こう)と謚される姫鑿にも、このように孝行な一面があった。彼は、老いた父を優しく気遣いながら話に耳を傾けていたが、一同が感心する宴会の奇抜さには驚きを隠しきれなかった。

 特別来賓である崇王彦も、北狄文化をも重んじた義弟の主催する酒宴に満悦であった。だが、一人だけ冷静な者がいた。その怜悧な目は、趙無恤ではなく、その背後と会場とを往復している青年、張孟談へと向けられていたのだった。

 

   4

 

「ふむ、去年から仕官した庶民上がりの文官と言うのが彼奴のようだな。この荀瑶(じゅんよう)を楽しませてくれるとは、なかなかにやりおるわ」

 趙無恤と張孟談のやり取りに目を光らせていた者、すなわち智瑶は、ほくそ笑みながら酒を呷った。

荀瑶と言うのは彼の本籍とも言うべき荀一門であり、智瑶が商王朝の末孫である荀氏と、その総帥を自負する現われでもあった。

 智瑶が孟談の計画に感服したのも、士大夫ならば形式にとらわれてしまう所を、柔軟で実質本位の庶民ならば柔軟に出来た事からであった。智瑶が無愛想でつまらなさそうな顔をしていたのは、心底から一同が楽しめ、士気を上げる宴をできる人材が自軍には一人もいなかったからだ。

 例えば、宴の責任者に趙の原過に代表される神官を任じれば歌舞や儀式は優雅だが、決まり切った酒肴で出し物も無いため、士気は上がらない。

だからと言って智過のような武官にやらせれば、兵士本位であるため御馳走や酒が山ほどあれば良いと考え、盛り上がりに欠ける武骨な宴になる。

 だが、庶民でしかも酒場勤めの経験者である孟談のような者なら考え方は自由であり、貧相にも華美にもならない均衡が取れた、質を重んじる宴が出来る。

 すぐ近くにいるようでなかなかいない、そんな人材を趙無恤が使役しているのを見た智瑶は、興味津々と言った体で孟談を見つめていた。

「素晴らしい人材だ。趙氏の配下ではなく、私の家臣にしてしまいたいものよ……あの手を使うか!」

 智瑶は、はたと手を打つと智伯国を呼び出し、何やらを耳打ちした。

 

 やがて夜も更け、兵達は宿舎へと帰って行った。今夜と明日、絳で身体を休めたら新鄭への進軍が始まるため、早々と休まねばならないのだ。

 彼らを帰した後、晋公父子が退出した。だが、今後の話し合いと呑み直しを兼ねて、智瑶ら四卿と崇王彦は残った。

一同が戦勝を祈って盃を交わすと智瑶が立ち上がり、

「本日の主役は、表向きこそ晋公殿下であり、我ら五人です。だが、見た事もない素晴らしき宴を催した人物は、裏の主役と言うべきではありませぬか!」

 その言葉に、誰も反対する者はいなかった。

初めての体験をした韓虎と魏駒はもちろん、自国の文化を尊重された崇王彦も、今回の宴を主催した人物を知りたがっていた。

「趙御曹司。宴会の主催者を紹介して頂きたい。彼こそ、“夜宴の名将”と申しても差し支えのないでしょう」

 無恤は智瑤の言葉に驚いた。人間の好き嫌いが激しい彼が笑顔など珍しい事だった。

「心得申した。今宵の宴を指揮したのは、我が配下の張孟談と申す者。だが、酒場の主人であった下賤の者ゆえ、高貴な方のお目に掛からせても良いものであろうか?」

 すると今度も智瑤が取り成した。

「いや、庶民でも士でも構いませぬ。これほどの宴会を開ける御仁を皆様は御覧になりたいのです」

 一堂に会した面々が機嫌良く頷いたので、流石の無恤も悪い気はせず、

「孟談よ、主賓の方々がお呼びである。入れ!」

 

 主君から謁見を許す言葉があったので、ようやく孟談は藍台へ登る事が出来た。

 その上にいたのは主君の無恤以外には、老練な雰囲気で恰幅の良い韓虎、見るからに精悍な魏駒、野性的な崇王彦、そして美麗な顔つきにすらりとした長身の貴公子、すなわち智瑤がいた。

 長く黒々とした頭髪と好対照な色白な肌は、まさに絶美の境地と言えた。引き締まった体躯には敏捷性、知性的な瞳には怜悧の光を宿しており、知勇兼備を象徴するにふさわしい人物だった。

「貴殿が張孟談殿か……自分は荀瑶と言います。まずは楽にして下され」

 若いながらも重みのある風格に、思わず孟談はひれ伏していた。商王朝の末裔と言う噂も事実なのではないかと思ってしまう、そんな風格のある青年だったのだ。

「張殿の主催された宴席、誠に見事でありました。まさに一国の“宰”と呼ぶにふさわしい。智伯国よ、例の物を夜宴の名将殿の御前に!」

 智瑤の声と共に智伯国が持参したのは、飯や肴の代わりに砂金を盛り付けた銀の食器と、象牙製の箸と匙の二揃いだった。その器を乗せていた朱塗りの盆も、精巧な絵が描かれた一級品だ。

続いて伯国が差し出したのは数多くの錦が詰まった箱であった。これは後に益州(えきしゅう)と言われるようになる西方の国から輸入した絹布、すなわち蜀(しょっ)錦(きん)だった。

いずれも田舎町の酒屋だった頃の孟談からすれば、想像もつかぬ高額な品々ばかりである。

「智卿閣下、これは如何な思し召しでしょうか?」

 孟談は、驚きのあまり言葉を失っていた。

「驚く事は無い。私からの贈り物です。さあ、受け取ってくれたまえ」

 勧める智瑤は、含みのある微笑を浮かべていた。その視線は、明らかに獲物を喰らわんと狙う眼であった。

 

   5

 

「智卿閣下、このような御褒美を私のような者が賜るわけにはいきません。何卒、御容赦下さいませ!」

高額な褒美を前に面食らう孟談に、食い入るかのように智瑤が詰め寄って来た。

「張殿、この贈り物はほんの気持ち。貴殿がその気ならば、これとは比べ物にならない待遇が手に入るのだが、如何ですかな?」

「それは……どのような事なのでしょうか?」

 緊張のあまり、孟談は上ずった声を出してしまった。だが、智瑤は畳み掛けるかのように微笑みかけた。

「何の事は無い。絳で貴殿に仕官をして貰いたいのですよ。趙御曹司、彼の器は家宰、いえ一国の宰相としても最高です。是非とも許可を頂きたい……」

 “宰”。

それは宰相や家宰など、家や国の長を補佐する最高の臣下のみに与えられる称号である。その言葉を口にして笑う智瑤の無邪気な顔を見つめる趙無恤には、その腹が読めていた。

絳での勤務と言う、最高の待遇を約束してくれるのは確かであろう。が、彼の本音は張孟談を智氏によこせと言うのに等しかった。

 以前から高齢で歩行もままならない姫午と、その老体を支えようと必死な姫鑿、この父子の弱みに付け込んで政治を一手に引き受けて智氏の繁栄を築いたのが智瑤である。

 父や祖父でも行わなかった独裁体制を築き、晋を牛耳るために最も効果的なのが、晋公両殿下ないしその本拠地である絳の名を出す事であった。

 増してや、韓魏両氏や代国王の前で晋随一の卿に頼まれたらば、音に聞こえた荒くれ者の無恤とて断れまい。智瑤はそこまで先を呼んでいた。

 今、晋公の威光を笠に着た野望の前に、無恤は寵臣を手放すか否かの選択肢を迫られたのだった。

 

 一同が固唾を飲んで見守っていると、無恤は予想だにしない行動に出た。

「ふふ……はははは! これは笑止。誠におかしゅうございますな」

 何と、無恤は笑い出したのだった。これには、智瑤が戸惑わされた。

「御曹司、何を仰せです。私は本気ですぞ!」

 冷静な智瑤も流石に驚いたのを確信した無恤は、さらなる反撃に移った。

「智卿も酔狂な方ですな。孟談は単なる一文官。家宰、宰相だと言われても、ようよう政務に慣れた男が宰として取り締まれましょうか。お引き取りをば」

 多くの人を奇抜な宴会で感激させるなど、凡庸な者に出来るはずもない。だが、無恤は孟談が役人としては新入りで実績が無いのを理由に断る事にしたのだ。

 如何に良き人材でも、その主君が謙虚な姿勢で断りを入れてくれば、無理強いはしにくくなる。これもまた、人材を保護する無恤なりの手段なのだ。

 すると、

「確かに趙御曹司の仰る通りです。もし彼の器を測りたければ、実績を見るに限ります」

 こうした場を脱するには血気こそ有効とばかり、魏駒が矢継ぎ早に意見をした。更に、

「うむ。張殿も従軍する身なれば、お得意であると言う情報収集で活躍して貰い、力量を拝見しとうござる。」

 韓虎も助け船を出す。無論、彼らは趙氏への好意で助けているのではなく、智瑤の横暴に嫌気が差しているのと、彼の手に人材が渡ってしまうのを恐れているのが理由である。

 そして崇王彦が場をまとめた。

「智卿閣下、皆もそう申しておる事です。ここはひとつ、仕官も褒美も猶予し、彼の戦ぶりを見てやれば良いでしょう。賢弟もそれで宜しいか?」

 義兄の頼もしい発言に、無恤は恭しく頷いた。

「ふう……貴殿を誘うのは、鄭攻めの後にお預けか。では、戦の時に頑張って頂こう。楽しみにしていますぞ」

 智瑤も今日の所は諦めるしかなさそうで、残念そうに苦笑した。

 

 金銀や錦は撤去されたが、それでも諦め切れない様子の智瑤は銀製の小さな杯を孟談に下賜した。そして、五人の主賓に酒を注がせ、孟談に飲ませる事で今宵の褒賞としたのであった。

 宴会もお開きになり、趙無恤・張孟談主従は宿舎へと足を進めていた。道中、おもむろに無恤が口を開いた。

「これ、孟談」

「はっ」

 主君の声に、孟談が拱手する。

「あれで良かったか。主は絳で働きとうなかったか?」

 人材を奪われる訳にはいかないと思い、反論した無恤であったが、内心では部下の心を案じていた。まだ若い孟談は、絳のような大都市で働きたかったのではないかと言わんばかりの、憂いを感じる目であった。

 だが、

「いえ、あれでようございました。御曹司は私を拾って育て上げ、重要な仕事をお任せ下さいました。終生お仕えしなければ、その御恩は報じられませぬ」

 この返答が、朴訥な孟談の精一杯だった。その紅潮した顔を見つめていた無恤は、愉快そうに笑った。

「良くぞ申した。それでこそ、主を家宰候補と見込んだ甲斐があったと言うものよ」

「なっ……何と仰せられます?」

 家宰候補、という言葉に孟談は仰天した。高共のような才覚に富んだ人格者でなければ、家宰など到底無理である。どうして自分が家宰の候補者になるのか。

 

 呆気にとられる孟談に、無恤は鋭い視線を投げかけたが、その奥底には慈愛があった。

「主に言うたであろう。水が岩を恐れるのかと……下流に流れる水のように真面目な主だが、いざとなれば岩をも砕く逆流と化す柔軟さがある。それ故、今宵の宴を任せて見たが大成功じゃった」

 更に無恤は、

「これからは、そのような者こそ家宰を務めねばならん。今回の成功に気を良くして務めを疎かにせず、本腰を入れて励め。良いか、趙氏の宰よ!」

 非情と言う意味の名を持ちながら、理解力に富み心優しい一面もある趙無恤。その彼に仕え、家宰の素質まで見出されていた事に驚き、感激した孟談はその場に座り込んで平伏していた。

 余りの畏れ多さと有り難さに、自然と膝を折ってしまっていたのだ。

莫迦者(ばかもの)、夜露の降りた石畳に座る奴があるか。明日も主には情報を集めて貰う。早く休むが良い!」

 主君に言われた孟談はいそいそと身繕いし、その背後を付いて行った。

 一方、絳にある智氏の館では星を眺める智瑤の姿があった。そのしなやかな身体には大輪の花を縫い取った衣を纏っていた。どうやら、牡丹のようだ。

「張孟談か。面白い人材がいたものよ……鄭での戦が今から待ち遠しい事だ!」

 牡丹は智瑤が好んで庭に植え、衣の柄にも選んでいる花だ。夜風を浴びて立つ智瑤こそ、乱世の花園に咲き誇らんと欲する、大輪の牡丹の花と言えた。

 絳の夜空に、一陣の薫風が吹き抜けた。晋と鄭、二つのあだ花の戦の日は、刻一刻と近づいていたのだった。