やたろう文商会

山形住みます作家・やたろうの公式(?)ブログです。

春秋の牡丹1

古代中国の春秋時代を舞台にした歴史小説を執筆しています。まずは、その第1章を掲載致します。

 

一章 張孟談

 

   1

     

馥郁(ふくいく)たる花の香りは、いつの世も季節を彩る。ほのかながらも凛として漂う牡丹の香りは、色と相まって人の心を癒すものである。

この儚げにして華々しく咲き誇る可憐なる色の花は、中国大陸の原産とされる。盛唐の時代から花の王とされ、百花王の異名を持つ。そうした長い歴史を見てきたからだろうか。牡丹は今でも中国を始め、日本や台湾などアジアのみならず、欧米にも好まれる威厳と気品を兼ね備えている。

中国に古代文明が栄えた河北は寒冷の地にして、こうした花の存在が、戦と政治を巡る権謀術数の毎日に明け暮れる貴族達、ある時は精励刻苦して仕事に励む人の心を慰め、勇気づけたに違いない。

これから始まる物語も、そんな牡丹の花を思わせるが如く咲き誇った、中国大陸の英傑達が織り成す花比べと言うべきものであろうか。

 

時は春秋時代

 この時代は、思想家・孔子として名高い孔丘が活躍した時代でもあり、戦場狭しと駆け回り、戦い抜いた戦士達の時代でもあった。

周王朝が弱体化して諸侯が割拠した春秋五覇の一角たる強国だった晋も、春秋末期には宗家同様に有名虚実となり、配下の豪族であった中行(ちゅうこう)・范(はん)・智(ち)・韓(かん)・魏(ぎ)そして趙(ちょう)の、いわゆる六卿が実権を握り、その頂点たらんと相食む時代であった。

 これから始まる物語は、その趙の地にある晋陽城で起きた事を記していく。

紀元前四二三年、周の分家である晋を構成する、有力諸侯の一派・趙氏が支配する晋陽。今の太原市である。

その趙氏が住まう宮殿に程近い館の晩秋の庭、長椅子で一人の老人が寛いでいる。茶色い衣を着こなした白髪白髯の枯れた老人だ。

手にはアカザの杖を持った彼は、頭には暖かそうな毛織りの頭巾を戴いている所を見るとかなり富裕な商人か、退役軍人であろうか。庭にある奇岩や、池に泳ぐ鯉などがそれを証明している。

 

「張様……御隠居様、寒くはありませんか?」

 声がする方を見ると、若い女中がいた。

彼女は年の頃二十才くらいで可愛らしさと美しさの相まった、瑞々しい年頃の娘だ。透き通るように白い肢体を覆うのは桃色の布地に緑の葉を縫い取った衣で、彼女はそれを洒脱に着こなしている。

張と呼ばれた老人は、趙の晋陽城内に住まう貴族一家の長老で、姓を張、名を孟談(もうだん)と言う。この孟談は相当な高齢で、今となっては息子夫婦に家督と母屋とを譲り、自分は離れで家業を支えながら読書に詩歌と悠々自適の毎日を過ごしている日々である。

そんな彼は、行儀見習いとして張家に召し抱えられた、この娘にお手伝いさんをして貰っている。この娘は彼の知人の子であり、母や弟との三人暮らしを支えるべく奉公しているのだ。

 

「おう、旬愛(しゅんあい)かえ。母屋の旦那様と奥様から言付けか?」

「はい。ご主人様は、新しい御城主・趙浣(ちょうかん)様の就任祝いが一か月後に迫っているとのことで、本日も外出なさいます。ですので……」

旬愛は少し口篭もり気味だ。まだ若いのに大旦那様のお世話をするのは、流石に気が重いのだろう。

趙浣はこの趙家を興隆させた趙無恤(ちょうむじゅつ)の甥の子である。趙無恤は謚を趙襄子(じょうし)と言い、既に故人であるが未だに名君として慕われている。その無恤が見込んだ若君と言う事で、彼の就任式は盛大なものにしようと皆が張り切っているのだ。

 

「趙浣様の……そう言えば、もうそんな時期だったな。うちは料理が自慢だから、倅はきっと出席者に食事を出すための庖人(料理人)を連れて行ったのだろう」

「はい。旦那様が料理人の方々をお供にしていかれましたので、御夕食の支度を言い付かりました」

若い者は男女を問わず、血気に逸ると同時にどこか落ち着きをなくすきらいがある。彼女もまた、そうした初々しい若人の一人なのだ。口の肥えたお方に出すものは何が良いか、粗相はしやしないかと戸惑っているのであった。

「ああ、適当に見繕っておくれ。その代り、今日は燗をしたのを一本つけてくれよ。倅の奴は、儂(わし)を爺さん扱いしてこの頃ろくな酒を呑ませやせんからなあ」

 老主人の言葉を聞いた旬愛は頷くと調理場へと走っていった。その後ろ姿を見つめる孟談は、はらはらと舞い落ちる金木犀の花を見、その芳香を嗅ぎながら嘆息した。

「あれから三年……長いものだ。大殿様と駆け回っていた頃が、まるで昨日のように思い出されるよ」

 

   2

  

 

 張孟談(ちょうもうだん)は晋陽郊外にある田舎町の出だ。その鄙びた町に一軒しかない酒屋の息子として彼は生を享けた。その酒屋はいわゆる造り酒屋と居酒屋を兼ねた店で、憩いの場として町を支えていた。

 

古来中国において、孟は伯と並んで長男・長子につけられる字である。談は、酒屋を談笑の絶えない店にして、時には人の相談にも乗られる賢い人になって欲しいと言う父の願いから、孟談と命名された。

 その願いに応じるかのように孟談はすくすくと成長し、元気な声で客を呼び、有り余る体力で酒絞りを手伝うなど、溌剌とした少年であった。だが、男の子の常なのだろうか。長じた孟談は弓を持って小鳥や獣を射止めては女の子に良い所を見せたがる、言わば早熟ないたずら者の一面もあった。

 酒屋の腕白息子・孟談の快活さで笑い声が絶えぬ張家と仲良しなのが、隣家に住まう豫(よ)家であった。豫家は晋の公家・すなわち周朝と同じ姫姓の名家に仕える官僚の家だ。

 

その家長は豫太公(太公とは親父さん、おじさんを意味する愛称)とあだ名される名士であり、見た目は威厳に満ちあふれ、弓の名手であったが心優しく、酒と詩吟を好む温和な初老の紳士だった。

 

家柄も由緒正しく、かつての昔に晋の大夫の伯陽(はくよう)が悪漢の手にかかった時、その子を命懸けで楚(そ)国まで亡命させた英雄・畢陽(ひつよう)の息子でもあった。

英雄の血を引き、学問武芸に秀でるなど華やかな経歴を持つ豫太公が晋公家の首府(しゅふ)・絳(こう)から派遣されてきた時も、その高名を聞き及んだ趙氏が一家で出迎えたくらいであった。

豫太公は、領主の趙氏との綿密な打ち合わせの上で晋公家への納税や儀礼なども取り決め、地元の民への気遣いも怠らなかったため、当主の趙鞅(ちょうおう)とも親密だった。

それゆえ、地元民は殿様ならば趙氏が随一だが、晋公家の役人なら一番は豫家の大旦那だとして、この親しみを込めた名前で呼び始めた。

趙の民の純真さに豫太公も魅かれたのだろうか。彼は老いを理由に職を退き、若い後妻とその間に産まれた子供達を連れて晋陽郊外に越してきた。薬草園をしながら田園生活を送るつもりだった。

酒屋である張家が酒好きな豫太公の入り浸る場で、周の都洛陽など様々な国を巡って修行し、仕事に励んだ豫太公の話は面白く、為になると評判になった。

 

 ある日、張家の居酒屋に豫太公が子連れでやって来た。その男の子は礼儀正しく挨拶をすると、慎ましく席に着いた。この店で太公が注文するのは、決まって粟の濁り酒だ。そこに、元気の良い声がした。幼き日の張孟談だ。

「阿譲(あじょう)、遊びに行こう。俺、酒屋の仕込みが終わって退屈なんだ。行こうよ」

「うん、張君。待ってね。今、本を片付けるから」

 孟談は手に釣り糸を持って笑っている。譲君と呼ばれた男の子は、何かの書かれた木簡を綴り合わせた、言わば古代中国のテキストを父親の太公に預けると、近くの川に釣りに行った。

この遊びは今も昔も子供に人気だが、当時は生活の糧である魚を得る行為でもあった。閑散とした昼下がりの居酒屋の店先が賑やかになる。

「張殿、孟談君も大きゅうなりましたなあ。拙宅の子供らもだいぶ元気ですが、うちの阿譲と来たら本ばかり読んでいます。孟談君のように元気に遊べばいいのに、困ったもんです」

 

薬草園の手入れと薬屋への納品を終え、汗だらけの額をぬぐいつつ張家の庭先で濁り酒を口にして笑う豫太公の顔を見て、張夫妻も笑った。

「いえいえ、宅の倅はませていて女の子の気ばかり引きたがるんです。力仕事をするのは良いものの、それ以外の手伝いは嫌だと申して暴れていますよ。旦那様の御子達、特に譲君を見習わせたいくらいです」

“阿”は中国語で親しみを込めた呼び方であり、阿譲とは譲ちゃん程度の意味であろうか。そう呼ばれた豫家の息子こそ、後に名を残す豫(よ)譲(じょう)であった。

そんな長閑な日々も、長くは続かなかった。北方の代(だい)国(今の河北省北西部から山西省北東部にあたる地域)から異民族である北狄(ほくてき)が結託して侵入し、近隣の住民が危険にさらされているとの情報が入った。

趙の総帥であった趙鞅は、自国領の兵士や武人を総動員すると指揮官として嫡男の無恤を出陣させた。

 

  3

  

趙無恤、彼は趙襄子と言う名で有名であるが、この趙襄子と言う名は没後の謚なので、存命中の事としているこの作品では趙無恤と呼ぶことにする。

さて、趙氏興隆の祖と言うべき趙無恤は孟談の人生に大きく関わる人物なので、しばし語る事を許されたい。

無恤は、趙鞅が北方の部族・翟人(てきじん)の血を引く愛妾との間に儲けた子で、嫡男ではなかった。彼の名を構成する恤(じゅつ)の字は憐れみや慈悲を指し、それが“無い”と言う、言わば冷酷非情を意味するかのような名前が付いている事が疑問に堪えない人も多いだろう。

だが、北方の民族は悪霊から子供を守るため、その危害をはねのける意味で悪い名前を付ける事がかつて行われており、それに影響された北部に住まう華夏人(後の漢民族)でもそうした文化があってもおかしくはない。

後漢の英雄にして、三国志で有名な魏王・曹操も、わざと悪い名を付ける風習を持つ北方の出身で、幼名には吉利(きつり)と言う良い名前の他に、阿瞞(あまん。邪悪な目ないしは、ずる賢い子)と言う悪霊を退けるに値する名があった。

こうした習わしから、趙の若君も健やかな成長を祈念して、冷酷非情を思わせる名を付けられたものと思われる。

 

そんな父母の思いも通じて、健やかに成長した趙無恤は、他の兄弟達と宝探しをした。その催しは父である趙鞅がちょっとした戯れに、

「父が宝の札をこの常山に埋めた。見つけた子には褒美を与えようぞな」

と言いだしたのが発端だった。長兄の伯魯……嫡男候補だが、もう宝探しではしゃぐ年でないのと、生来の病弱が理由で父と共に弟達を眺めていた所に、末子の無恤が手ぶらで駆け込んできた。

 宝はあったか、と尋ねる親や兄に、

「ありました。この常山の上から見える代国は、取る事が出来る宝物の蔵です」

 代国は遊牧民が住む集合体のような国である。翟人の妾を趙鞅が娶り、また年長の娘を部族王に嫁がせているなど、友好関係ではあった。だが、北狄は敵国に付いたり、謀反をする可能性もあり、油断のならない頭痛の種であった。

 その一方で諸部族の兵士は精強で、産物も遊牧民の土地にしては豊かなので、趙氏としては喉から手が出るほどに欲しい要所でもあった。すなわち、無恤は普段から様々な知識の収集に努めているからこそ、常山の上から眺めただけで代国が宝の地である事を見抜いたのである。

 

その言葉を聞いた伯魯は咳き込みながら父に訴えた。

「父上、無恤は幼いながらもこうした大胆さと知恵があります。増してや私より健康なので、どうか彼に後継の座をお譲り下さいませ……」

 その病弱な長男の目は、早死にして迷惑をかける自分よりも優秀な末弟を大事にしてほしいと言う思いに満ちていた。趙鞅も頷き、伯魯の言葉を噛み締めたのであった

「うむ、主が良いならばそれも良かろう。父ものう、姑布子卿(こふしけい)先生の鑑定を気にしておったのじゃ。やはり、無恤に英雄の相があるならば、譲らねばなるまい」

 姑布子卿は孔丘の相を見て、無類の聖人になる事を予言したと言われる人相見である。彼は趙鞅に呼ばれて人相を占ったところ、無恤に将軍の器ありと見做した事があった。その言葉が気にかかっていた趙鞅は、伯魯の発言をも考慮に入れ、乱世を勝ち抜く才気に富んでいると判断した無恤を後継者にしたのだ。

そうした経緯で趙氏の嫡男として君臨する事と相成った無恤の軍に加わった豫太公は、愛用の弓矢を手入れすると、自前の馬車を趙氏から派遣された軍人達に操作させ、颯爽と援軍に行った。

だが、それが張家の人々、そして豫譲が豫太公を見た最後であった。

 

北方の蛮人、北狄華夏の民すなわち漢民族が馬に引かせた戦車に乗り、歩兵を繰り出して戦うのと違い、騎馬に直接乗った、軽装ながらも精強無比な軍隊を有していた。馬上から繰り出される戟や棍棒の一撃は歩兵を楽々と踏みにじり、戦車隊が包囲しても素早く逃げてしまい、馬に乗りつつ弓を放つ騎射戦法で痛烈な一撃を加えてくる。

このように盗賊化した北狄は脅威でしかなく、“狄”のように獣偏が付く言葉で記され、後世には匈奴と言う疫病神か悪魔の如き言語で表現されたのも頷けるものであった。

此度は蛮族側が結束してきたのもあり、趙軍は苦戦を強いられた。そうした事情もあり、豫太公は趙父子への恩を返そうと、無恤が率いる戦陣への参戦を決意したのであった。

戦陣に到着した豫太公の弓は鋭く、尚武の一門の中でも最強と謳われた無恤の采配もあって将兵の士気は冴え渡った。北狄軍の騎兵は、馬或いは人を射落されて混乱し、討伐軍の圧勝は目前と思われた。

しかし、敵方にも目の利く者がおり、百発百中の射撃を繰り出す太公を見つけた。彼は部下に毒矢を用意させると、騎馬隊の俊足を生かして草むらに潜り込み、豫太公の背後から射かけさせたのだ。

前面の敵に気を取られた太公は不意打ちを食らい、倒れ込んだ。トリカブトの毒が仕込んであったので無恤はそれを口で吸い出すと吐き出し、太公を休ませた。

 

それから三日で戦は決着した。無恤がある部族に偽情報を流したかと思えば、部下を派遣して他の部族に賄賂を贈って疑心暗鬼を抱かせるなど、北狄の侵略を弱めたのだ。

結果、彼らが野営していた村落は壊滅して大半は逃げて行き、逃げ遅れた者は捕虜として晋陽に連行されていった。豫太公は本営にある病棟で寝ていたが、趙無恤から話を聞くとにっこりと微笑んだ。

そして次の瞬間、顔を引きつらせて苦しみ始めた。気力で矢傷を堪えていたのが、安心感から緊張がほぐれてしまい、悪化の一途を辿ったのだ。

 

  4

 

孟談はその時、北狄の捕虜が大勢連れて来られ、晋陽郊外にある自分達の集落を通って行ったのを見ていた。彼らは羊など家畜の育成に秀でているため、そうした公営牧場で働く奴隷として連れて行かれるのであろう。

当時は奴隷と言っても、後世の黒人奴隷や強制労働のような悲惨なものではなく、ローマの奴隷のように働き次第では自由を得られる事もあった。特に異民族は蔑まれる一方で、華夏には無い技術や文化を持つので貴重な“商品”として珍重されていたのであった。

その捕虜達の中でも、ひときわ大きな体だが顔つきはあどけなく、孟談と同い年であろうか。片目に怪我をした遊牧民の少年も、戦闘員と共に晋陽に引き立てて行かれるのが印象的であった。

さて、郊外の村に護送されて来た太公は、妻と子の顔を見ると喜びながら、

「お前達に会えて安心した。奥よ、父のような軽薄な振る舞いをして命を落とすなと子供らを躾けておくれ。阿譲や、兄弟はもちろん張家の皆さんとも仲良くし、母上をお助けせい。良いのう……」

妻子に思いを伝えられた豫太公は程無くして息を引き取った。まだ幼い子を残して。

 

それから五、六年が過ぎただろうか。北狄との戦闘で母子家庭になった豫家は、未亡人の母と子供達とが助けあっていた。

この時代は、戦争へ出かけた人への軍人恩給など無く、せいぜいが役場から捨扶持でも貰えれば御の字、悪ければ…と言うよりかは、敵陣や周辺地域からの金品略奪が褒美・恩賞となる事が常識だった時代である。

豫家も豫太公の死で生活力が低下したため、太公の残した薬草園と、趙氏から贈られる些かの米粟で凌いだが、何分士の身分で子沢山だったから女手一つで子育ては至難の業であった。

結婚前も身分のある出自であったのか、豫譲の母は美しい刺繍を得意としており、それを活かした縫物をして身を立てていた。覚悟せねばならないのが、いつ来るか分からない貧乏暮しだ。平時でさえ大変なのだから、斯様な戦乱の世となれば尚更である。

 

孟談の両親、特に父親は田舎で酒屋を経営する上でその大変さを身につまされて分かっていた。農民が酒売りをしているのだから防衛設備などあるはずもなく、商売したくても粟や麦、豆などを略奪されるなど茶飯事だった。

明日は我が身、されど子供を抱えて健気にも困難に挑んでいく彼女に感心した両親は、お手伝いさんを頼む事にした。生活を援助する代わり、希望者に簡単な読み書きや都の歌舞などを教えて貰った。

こうする事で自分達の生きる術を広げる手段になるので、豫一家を助ける事は自分達のためにもなるのだと感じた張家は仕事を頼み、自分達に恩恵を授けてくれる夫人の面子を潰さぬようにしたのだ。

その時から、張家と豫家の絆は更に強まった。無き豫太公が導いた縁であったのだろうか。

 

当時の中国は言わずと知れた男尊女卑で女性に学問は不要、と言うのが建前ではあったが、流石に高貴な女官や役人の娘は簡単な読み書きや教養は求められた。

そのため、武人の妻のたしなみ程度だった計算法や読み書きは、字が読めない人々にもてはやされた。豫家の未亡人みたいな教養人は他の村や町にはいないため、張家が住む町は商売で他と差を付けられる。

それに、やんごとなきお方でなければとても学べない学問を、少しかじる事が出来たと言う満足感も町の人々のひそかな喜びであった。

 そうした都びとの知識を貪欲に取り入れて田舎を盛りたてようと励む大人達の傍ら、子供達は無邪気であった。朝から夕まで学問や家業の手伝い、時には弓を手に身体を動かして遊んだ。

 中でも、酒屋の息子で粗暴な孟談と、両親の知的な風格を受け継いだ豫譲は一見すれば合わぬように見えて、互いの短所を補っていたため、良き竹馬の友であった。

 

「皆さん、そろそろ晩ご飯にしましょう。孟談、譲君を連れておいで!」

 孟談の父母が呼ぶ声がする。豫譲の母も有り難そうに頭を下げ、子を呼んだ。

「いつもすみません。阿譲、張さんがお呼びよ。ご飯にしましょう」

 呼ばれた豫譲と孟談は、狩りをやめて酒屋に駆け込んだ。もちろん夕餉の食卓には二人が仕留めた野鳥の羹(あつもの)や丸焼が彩りを添えた。

張家においては、豫譲とその母や弟妹を交えての食事は珍しくなかった。

如何に士の身分で穀物を貰えても、大家族では雀の涙。刺繍で稼ぎ、酒場の手伝いでも数多くの子を養うのは困難で、毎日お腹いっぱい食べるわけにもいかなかった。

 そこで、豫家に同情的だった張家では子供らが勉強や遊びをする時間帯に彼らを呼んで食事をする事で、仲良しな子供達を我が子、隣家の子問わずに食べさせようとしたのだ。

 

都びとの教養に憧れる酒屋夫婦の親切心、そんな彼らの人情に答える豫家の未亡人と子供達。似た者同士の隣人がいがみ合う事もあれば、異なる環境に育った者が相互で助け合う事もあるのだ。

 ふわりと薫るのは春を告げる蓬(よもぎ)の芳しき香りであろうか。晋陽郊外の鄙びた片田舎の町に、安らかなひと時が流れた。張家と豫家の睦まじい間柄は、乱世の晋において一服の清涼剤ともいえるものであったが、そう長くは続かなかった。 

それは、隣家の女主人すなわち豫譲の母が張家の酒屋に来て明らかになった事であった。

「まあ、それでは譲君が仕官をする事に……。おめでとう存じます」

 孟談の母が嬉しそうに言う。孟談も豫譲に酒をついでやりながら話を進めた。

 

聞く所によると中行氏の当主中(ちゅう)行(こう)寅(いん)、やはり范氏の大御所范(はん)吉(きっ)射(せき)が各地から賢才を募ると、斉の地から呼びかけたのだ。范・中行両氏は、周の前に栄えた商(しょう)王朝(殷)の血を引くとされる名家で、晋で長らく栄えた荀(じゅん)一門の産だ。

だが、前四九〇年代に他の六卿と対立、特に無恤の父・趙鞅の奮戦で敗退した。そこで、東にある勢力で晋公家と仲が良くない斉国に逃れて捲土重来を伺っていたのであった。

中行・范両氏は、戦で大黒柱を亡くし、失職した士階級の若者とその家族を呼び集め、力の回復に努めたのである。豫譲もそうした若者の一人として招聘(しょうへい)を受けたのであった。

 

張家で心尽くしの酒宴を開いた翌日、惨めな浪人の倅だった豫譲は、粗末だが馬車を用いる役人の身分になり、意気揚々と晋陽を離れた。

「張君、今までありがとう。親切はとても嬉しかった……さよなら!」

「阿譲はお役人様なんだ。泣きっ面なんか晒さないで、偉くなりなよ」

 友は手を取り合い、別れを惜しんだが時はそれを許さぬものだ。豫家の乗った馬車は、見る見るうちに小さくなっていった。

 友を見送った張孟談は、酒の仕込みなど力仕事はしたが、帳簿を付けるごとにぼんやりしていた。

豫譲と彼の母に教わった読み書き計算を生かせる場なのだが、それをしていると彼らの事を思い出してしまうのだ。

 

   5

 

 親友・豫譲の旅立ちから半年が過ぎただろうか。秋の晋陽郊外は高粱や黍、粟が実り、黄色く実った田畑が広がっている。春秋期の中国では粟や高粱(こうりゃん)で酒を造っていたため、造り酒屋の張家には一番忙しい時期だ。

 孟談も穀物を運んだり、醸造庫に出入りしたりと忙しく働いていた。もしこの酒の中で極上の酒が出来れば斉に運ばれるかも知れない。そうしたら、豫譲も飲んでくれるだろう。

 友を懐かしみながら孟談が労働に汗を流していると、突如として背後から重々しい声がかかった。

「御免! 拙者は、晋陽の城に仕え奉る家宰・高共(こうきょう)と申す者じゃ。張孟談殿の家はこちらか?」

 声がした先を見ると、美しい馬車から正装した官人が下りて来る姿が見えた。

 

 高共と名乗ったのは、黒い鬚を胸まで伸ばした恰幅の良い中年の男性だった。彼

は村役場の役人に伴われ、豪奢な帯に取り付けられた佩玉(腰に飾った玉石製の装身具)の音も涼やかに、ゆったりと下車して来た。

高共と言えば趙氏の家宰、すなわち筆頭家老と言うべき役職で有名な、今を時めく人傑である。彼は家柄の良さも然ることながら、文武に秀でているために若君である無恤の教育係たる近侍になり、長年の経験と実績を積み重ねた、花も実もある重鎮だ。

その家宰が何故、この田舎町まで来たのか。張家、そして町の人々の関心は貴人来訪ばかりでなく、孟談が名指しで呼ばれた事に注がれていた。

「……孟談は僕です。ご家老様、どのようなご用件でしょうか?」

 緊張しながら話す孟談を前にした高共は自慢の髭を撫ぜ、静かに微笑んで答えた。

「お主の家は、酒場を経営しておるじゃろう。それに聊(いささ)か学もあると聞く。どうかね?」

「はい。豫太公様や、その奥様に読み書きを習いましたので、聊かの心得はあります。店の仕事に役立つ計算もまずまずでしょうか」

 

都城の貴人を前にした孟談が少し緊張気味に話すと、高共は安心させるように、

「おお、豫太公御夫妻の下で習われたとな。あのお方は聡明ゆえ、良き勉強になったじゃろう。奥方も家政を能くするご婦人じゃったでのう。拙者も豫夫妻から都の教養や知識を学んだこともあるのだ」

かつて趙に仕官していた豫太公一家の話をすると、趙家の家宰である高共の顔も心なしか綻んだ。

孟談の両親が気を利かせて持ってきた木の椅子に腰掛けた高共は、豫家の話を始めたので集まった面々も和んだ様子で話を聞いていた。

この高共、厳つい見た目に似合わず話好きで聞き上手らしく、色々と話して世間話に花を咲かせた後、孟談を誘いに来た理由をようやく語り始めたのだった。

「拙者が、こうして町や村を回っておるのは他でもござらん。晋陽城を改築した際に市も広くしたゆえ、商人や職人の不足を補わんとしての事なのだ」

 晋陽は豫譲の父・豫太公が戦死した戦いよりもずっと以前から改築をしていた。紀元前五〇〇年に趙鞅が邯鄲(かんたん)に本拠地を移したが、領地の拡大に伴って趙家も各地に拠点を作る必要に迫られていた。

城と言っても、中国の城は日本の城とは異なり、巨大な城壁や深い濠で囲まれた都市そのものをさす。そのため、大工事になって長きに亘る月日を要したのだ。

 

今は亡き先代の家宰・董安于(とうあんう)を始め史黯(しあん)、周舎(しゅうしゃ)、尹鐸(いんたく)そして高共と言った文武に優れた臣下達の采配で城壁は高くなり、面積も広くなった晋陽は、都市としては申し分無い出来栄えになった。

だが、そんな晋陽にも泣き所が存在した。都市拡張の常として、人手不足になっていたのだ。高共はその不足を補える人材を探すべく、家宰自ら駆け回っていたのだった。

「分かるかね? 孟談殿には城内に店を出してもらおうと言う事じゃ。出すも出さぬも、お主の返事次第で決まるのじゃ。働きでは出世もできるのですぞ」

 高共が厳かに、諭すように言う。父母も、

「のう孟談や。お受けしてはどうだい? 豫家の皆さんから色々と学んだ、お前の学問の成果を実らせられるかも知れないじゃないか」

「これは天の神様の思し召しかも知れないわよ。譲君が斉へ行ったように、晋陽で御奉公出来るなんて滅多にないわ」

 

快活な息子を田舎町で埋めさせたくない親心と、貧しい町でも役人や富豪を輩出できるのかも知れないと言う希望を胸に、息子に店を出す事を薦める。酒屋の息子張孟談。片田舎で朽ち果てるかも知れなかった彼には、降って湧いたような栄転だ。

親友の豫譲も斉の地で武人になっている。自分も出世か、はたまた金持ちになる機会があるのかも知れない。

 友を失い、塞いでいた若き獅子は、鬱屈した気持ちの捌け口と生きがいを、ここに見出したのだ。

「分かりました。出店の件、謹んでお受け致します!」

 意を決した孟談。それを見守る両親と高共。今まで名も無かった一人の青年が動き出した事で、歴史と言う名の花畑に、一株の牡丹が咲こうとしていた。